陳家溝武勇の歴史 陳式太極拳

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秘伝 陳家太極拳入門 老架式:陳家溝武勇の歴史

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陳家溝武勇の歴史

陳家溝9世の陳王廷は武勇にすぐれ、その勇名は遠くまでおよんで知られ、やがて山東省の人たちの要請を受けて警備(保鏢)に出かけるようになり、それより代々にわたって陳一族が警備にあたっている。

陳王廷の武勇伝は数々のものが伝えられていて、河南省温県地方の出来事を記した「温県志」や「懐慶府志」に、1644年に土匪の大群が黄河をわたって押し寄せてきた時、陳王廷が義勇軍をひきいてこれを防いだという記録がある。

また、かつて河南省登封県の官が農民に重税を押し付けた時、これに反抗して武挙(武官の地方試験に通った人)の李際遇が兵を集めて、嵩山少林寺の御塞(砦)にたてこもった。陳王廷は李と旧知の関係にあったため、これを止めようとして嵩山に登ると、反乱軍の兵たちは陳王廷をめがけて雨あられのごとく矢を射掛けたが、乱れ飛んでくる矢を陳王廷はことごとくかわしてしまい、兵たちはおどろいてひれ伏してしまった。
ことが納まった後、陳王廷は反乱軍の兵の一人であった蒋発という者を弟子とした。

陳王廷以後、陳家溝では武術の練習がさかんになり、多くの名人を生み出したが、14世の陳長興(1771~1853)の時代はとくにさかんになり、太極拳の技法が巧妙となった。

陳長興は、字を雲亭といい、幼少の頃より父の兼旺から太極拳を学んで、清・道光年間には陳家溝一の達人とされ、つねに正しい姿勢を崩すことがなかったため「牌位先生」(位牌のように直立したままの人)と呼ばれていた。

この頃、一族の陳徳瑚が経営する薬剤店に長工(長期間の作男)として仕えていた河北省永年県の楊祿纏(後に露禅)は、毎夜陳一族の人たちが練習するところを覗き見ては、一人で密かに工夫していたが、やがてそれは陳長興の知るところとなり、陳長興はその熱意に打たれて門外不出の太極拳を楊に授けた。

10数年の後、楊露禅は北京に出て太極拳を伝え、大いに有名となった。現在、多くの人の間に広く伝えられている「楊式太極拳」は、楊露禅の子と、孫が三代にわたって改変した型である。

陳長興の伝は一族の多くの者が学んだが、四男の陳耕耘がとくにすぐれていた。

陳耕耘はまた父の後をついで、山東省の警備にあたること10余年におよび、その間に何度も匪賊とたたかって民衆を守ったため、山東省の人たちは陳耕耘の死後に、その業績をたたえた記念碑を建立した。

1900年、山東省大総統督の袁世凱将軍は陳耕耘の記念碑をみて、陳家溝に優れた武術が伝えられていることを知り、使者を派遣して教授を要請したため、陳耕耘の子の陳延熙がおもむいて将軍の子弟の指導にあたり、将軍の転任地にまで随行して、6年におよんで指導した。その間に陳延熙は各地で武術家と試合をしたが一度も敗れることがなく、陳式太極拳の拳威をいかんなく発揮した。

陳延熙は陳家溝に戻ってから、懐慶府の知府の警護にあたり、知事・杜厳の子、杜毓沢に真伝を授けた。また陳延熙の子・陳発科(字・福生)はよく父の伝を受け継ぎ、後に北京に出て陳式太極拳を公開し、多くの人にその名を知られている。

引用、参照 陳家太極拳入門 松田隆智著 新星出版社

カンフーフィットネス補足

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