李書文 八極拳 多くの武術家を震え上がらせた当代無比の伝説の達人

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太極拳をする女性

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多くの武術家を震え上がらせた当代無比の伝説の達人

洋の東西を問わず、武術家の武勇伝というものには、なみいる強豪を次から次へとなぎ倒したとか、当代一の名手を一撃で打ちのめしたなどといった名前と場所を入れ替えれば誰にでも当てはまりそうな、少々、眉唾ものの類が多いものだ。

しかし、八極拳の伝説の達人、李書文にかぎっていえば、 その驚愕のエピソードをいくつも読み知るにつれ、しだいに戦慄をおぼえざるをえない。

それは、彼が一生涯をかけて練り上げたカンフーが、真に戦うことを目的としたものであり、そして人間を殺すことを目的としたものであったという事実を、いやおうなしに思い知らされるからにほかならない。

晩年の、李書文が、関門弟子(最後の弟子)の劉雲樵とともに、北京に出かけたときのことである。

李書文たちは、ある高名な武術家の自宅に招かれたが、そこで挑発を受け実際に立ち合うことになった。

しかし、李書文が牽制で軽く胸を突くと、その武術家はバッタリと倒れて動かなくなってしまった。

「おい、どうした、これからが極め技だ。起こしてやれ」

そう李書文が言うので、劉雲樵は武術家を助け起こしたが、すでにその男は絶命していた。

劉雲樵がのちに述懐した実話である。

「神槍李」と恐れられた男

李書文は、近代中国の前兆となる太平天国の乱が終結した、清代、同治3年(1864年)河北省塩山県南良に生まれている。

ここはカンフーの郷、滄州に属し、八極拳のメッカである孟村や羅瞳に近い場所であり、 おそらく彼も幼少のころから、カンフーに触れる機会があったに違いない。

「滄県志」によれば、李書文はまずはじめに、地主の墓守をして暮らしていた黄四海に八極拳の手ほどきを受けたことになっている。

八極拳は、もともとは孟村の回族、 呉家を祖とするが黄四海の八極拳は漢族系(羅瞳系)の流派に属し、黄四海は六合槍で鳴らした張克明の弟子にあたる。

はじめ黄四海は、生活が貧しく体格も貧弱な李書文をみて、弟子にとることをためらったという。

しかし、いちずな李書文は毎日、地主の作男としての仕事を終えると、饅頭1個をふところに入れて片道およそ4キロの道のりを歩いて師のもとに通い、その道中にも槍やカンフーの稽古をおこたらなかった。

さらに李書文は、ひと一倍きびしい鍛錬をみずからに課し、彼が打椿(槍や拳を打ち込むこと)してまわった木のまわりには深いくぼみができ、 彼が手足を打ち震わせると踏みつけたレンガは、こなごなにくだけたという。

また李書文の槍術はひときわ抜きん出ていて、ある日、隣人にその腕前を見せてくれと頼まれると、彼は壁の前に群がるハエに眼をとめ、手に取った槍で壁に止まるハエを矢継ぎ早に刺し落とした。

その隣人は、穴のあくほど壁を見つめていたが、そこにはなんの突き跡もみつけることができなかったという。

これは、「滄県志」に記された逸話だが、「神槍李」と称された彼の神技を語る際に、しばしば引き合いに出される、よく知られたエピソードである。

李書文に二の打ち要らず

壮年にいたると、李書文は当時の軍閥の幹部や各地の有力者に招かれて、さまざまな土地で八極拳を教えるようになった。

なかでも、河北省提督で「天下一剣」と呼ばれた、李景林将軍に請われて天津に出かけたときのエピソードはよく知られている。

「神槍李」が天津にいることを聞きつけた、ある二人の武術家が(李将軍おかかえの武術家だったという)、李書文の腕前を試そうと彼に試合を申し込んできた。

謙遜してこれを断った李書文は酒席を設けてふたりの武術家をもてなしたが、彼らは執拗に勝負をせまった。

やむをえず李書文はテーブルを片付けて向き合い、「そうぞ」と言うや、前に進んでひとりの頭を掌で一撃した。

すると、相手の男の頭は胴体にめり込み、両眼が30センチばかりも飛び出て即死した。

残るひとりにも、李書文は頭をめがけて掌で一撃した。

相手は必死にその一打をよけたが、肩に当たって肩甲骨が砕け、テーブルごと地に倒れ伏した。

李書文の絶招(実戦の奥義)は、劉雲樵によれば、「猛虎硬爬山」だったといわれる。

これは、まず最初に軽く牽制の突きを出し、次に肘を打ち込んで相手を倒す技だが、どの勝負においても、はじめの牽制で相手が倒れてしまうため、「最後の極め技のほんとうの威力は誰にもわからない」と、みずからつねづね口にしていたらしい。

ゆえに彼は、「二の打ち要らず」(はじめの一撃で勝負がついてしまうので、第二打が必要がない)とうたわれ、あまたの武術家たちから恐れおののかれたのである。

謎に包まれた急死の真相

李書文は終生、カンフーを教授しながら華北の地をめぐり歩いたため、許蘭洲将軍や、張提督、任国棟ら高名な軍人をはじめとして多くの弟子をとっている。

だが拝師させて正式に弟子としたものは、そう多くはいない。

このうち、開門弟子(最初の弟子のこと)の霍殿閣と、彼の甥でありやはり李書文の弟子となった霍慶雲が、清朝最後の皇帝、「溥儀」の護衛を、関門弟子の劉雲樵が 台湾に渡って蒋介石総統の護衛をつとめたというのは興味深い。

八極拳の実戦力を、おのずと物語るといえよう。

李書文は弟子を取る一方で、けっして習練をおこたることがなく、八極拳をより高次なものへとと凝縮させ、年を重ねるごとに、そのカンフーの威力は高まっていった。

だが、その反面、彼の性格は狂気をおび、気性は粗暴さを増してゆくようになる。

李書文は晩年、張提督に招聘されて山東省に出向くが、誰何した司令部の警備兵を打ち殺し、張提督の屋敷の庭のレンガを震脚で打ち砕き、提督自慢の樹齢数百年の大木を打ちつづけて、数週間で枯らしてしまった。

さすがに手を焼いた張提督は、やむなく李書文を郷里の滄州に送り返した。

しかし、その途上、李書文は急死してしまう。
享年69歳であった。

死因は伝染病によるものだとも、恨みを持ったものによる毒殺だともいわれていて真相は定かではない。

殺した人間のほんとうの数はわからないとまでいわれている李書文だが、その遺骸は生まれ故郷の南良村の片隅の墓地に訪れるものもなく、ひっそりと眠っている。

introduction

李書文(1864-1934)。字は同臣。
河北省塩山県南良出身。
幼少より八極拳を修め、長じてからはカンフーを教授しながら諸国をまわる。
その拳技は神域に達し「戦う武術家」として数々の伝説を残す。

李書文 まとめ

  • 地主の墓守をして暮らしていた黄四海に八極拳の手ほどきを受けた
  • 李書文は人一倍きびしい鍛錬をみずからに課した
  • 「二の打ち要らず」はじめの一撃で勝負がついてしまい第二打が必要がない、とうたわれた
  • 年を重ねるごとに武技は高まったが気性は粗暴さを増していった/li>

中国より、日本国内で有名な珍しい人です。
エピソードには、事欠かない方だったみたいですね。
わたしもこの方の系列門徒です。

カンフーフィットネス補足

  • 当サイトでは、「カンフー」と「武術」「太極拳」などを同じ意味で使用しています。
  • カンフーフィットネス「スタジオ・タフ」では、現在、このカンフーのクラスはありません。
  • このカンフーの指導ができる者はいますので、ご相談ください。
  • 当スタジオは、カンフーを「フィットネス」(健康医科学的に)としてお伝えしております。
  • カンフーに関する疑問点などがあればお問い合わせください。
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